●●古田武彦氏について●●

古田氏は、もともと親鸞を研究されていました。東京薬科大学で国語の教授をされていたこともあります。
ところが、「魏志倭人伝中にある『邪馬壱国』は『邪馬臺国』の誤りである」という説に疑問を持ち、
三国志中にある 全ての「壱」と「臺」を抜き出して、それらに誤りがあるかどうか検証する という
途方もない論証をされてからは 専ら古代史を専門に研究されています。
ただし、あまりにも旧説を覆しすぎるので、学会からは未だに認められていません。
古田説の骨子は、こうです。
 中国において「倭国(ゐこく)/壱国」と呼ばれた卑弥呼の国は、
 福岡県の博多湾岸に中心を置く国であり、
 後に「倭の五王」と呼ばれる王を輩出し、7世紀末に唐によって滅ぼされた
 一貫して中国と国交を持った国であった。
 これは、天皇家とは別の国家である。

 ●●主な説●● ※これ以外にもたくさんあります。書き切れていないのは勉強不足です。
 ◆縄文時代◆
・四国足摺岬にある巨石群のうち、海に面しているものは縄文灯台である。
  (石英岩で 表面がきれいに磨かれており、日の光や月明かりに光って見える。)
  ※足摺岬は黒潮が日本列島にぶつかる海の難所であるため。
・縄文時代、日本人は海を渡って南米大陸にたどり着いた。
  ※その時代のミイラの体内から日本に分布する甲虫(寄生虫)が発見された。
  ベーリング海峡を渡ると甲虫は死滅してしまうため、この甲虫は太平洋を運ばれた可能性が高い。
  →その記録が、後に『山海経』や『魏志倭人伝』に「裸国」「黒歯国」として記述されている。
・土器を発明したのは日本人である!(っていうか、他の国でまだそれより古いの出てないし)
 ※火山で焼かれた土をヒントにしたのでは?と言っている。海を渡るための必需品だったとも。
・出雲の国引き神話は縄文時代に比定される。「北門(きたど)」は、
 ロシアのウラジオストックのことである。
 ※ここから、島根隠岐島産の黒曜石が大量に出土する。
 ◆弥生時代◆
・(魏志の時代については)邪馬臺(台)国は原文通り『邪馬壹(一)国』と呼ぶべし。
・卑弥呼(ひみか)は、筑紫君「甕寄姫(みかよりひめ)」である。
・壹興(いちよ)は、「壹国」の「興王」を指す中国的呼び名である。
・漢によってもたらされた金印「漢倭奴国王」は、従来「漢の倭の奴の国王」と読まれていたが、
 漢が「倭奴(わど/ゐど)」という国に授けたものである。
 この「倭奴」という名称は、「凶奴」の「凶」に対して従順を意味する名前である。
 当然出土地の博多湾岸の国である。
・魏から卑弥呼がもらったと言われている「三角縁四神獣鏡」は、古墳時代にしか出土しない後世のものである。
・この時代、魏では単里が用いられていた。これは、漢の時代の約5分の一の長さの単位である。
・古い時代、日本では2倍年歴が使われていた。[記:魏志倭人伝]
 ※月が満ちて一月、欠けて一月と数え、現在の半年でひとつ年をとる。
  (昔は「おとしだま」をもらって 正月に一斉に年をとった。)
  神話の神様が 変な数字で長命なのは、実際の年齢を現在の倍数えていたためである。
  お盆と正月を祝うのがその痕跡である。
  この風習は(雨季・乾季のある)東南アジアから始まり、
  黒潮に乗って広くアジアに浸透していた。
・神武天皇の神話は、古代の地形や考古遺物と記述が合致しているリアルな話である。
 ※ただし、神武天皇は倭国の中心人物ではなく 九州地方の一勢力だった。(出発地は糸島郡。)
  大和盆地に着いてからも、実際にこの勢力がこの地方を征服するまでにはかなりの歳月を必要とした。
・「君が代」の歌詞は、倭国(博多湾岸)の重要地名を歌った王朝歌である。
・「漢書」の邪馬台国は、邪馬国の首都「ダイ」を指す。
 ※ダイとは、低湿地を指す地形名詞であるらしい。現在調査中とか。
・出雲 荒神谷で発見された「銅剣」と発表されている銅製品は、実は「矛」である。
 (くぼんだ部分を柄にくくりつけて使う。このような形態の祭具を、美保神社の祭礼で使用していた。)
 これは、「大国主」の別名「八千矛」とも関係がある。
・天照神は、もともと対馬の太陽神である。(アマテル神社あり。)
 瀬戸内地方の「ひるこ神(日子→蛭子)」と「ひるめ神」は、対の太陽神だったが、
 「天照」勢力の進出により「ひるこ神」は貶められ「ひるめ神」は「天照神」と同一の神とされた。
 ◆古墳時代◆
・「岩井の乱」で歴史の教科書に載っている「筑紫君磐井」は、日本列島で最初に裁判制度を導入した王である。
・随の時代から、倭国の王は天子を名乗った。「太宰府」は、倭国の中央政庁である。
 ちなみに「天皇」は、天子に次ぐ第2位の名称である。(日本列島中に複数いた可能性あり。)
・この時期、筑紫倭国は年号を使用していた。これを「九州年号」と呼ぶ。
 海外資料や 古い寺社の記録に断片的に残されている。
 ◆大和時代◆
・隋書にある「国(たいこく)」は やはり九州にある国家。
 通説で「多利思比孤」(足彦たりしひこ)と言われている国天子は、
 原文通り「多利思北孤」(足矛たりしほこ)である。足(たりし)は美称である。
 倭国が「矛」によって国家を平定したことを表す名前。
・現在の天皇家が、蘇我氏を倒してようやく大和盆地の覇権を握り
 唐と倭国の抗争を利用して(倭国に同盟しないことで間接的に唐に味方した)
 日本列島の覇権を握った。
 実際に中国が近畿「日本国」を認めたのは則天武后の時代である。
 ※「旧唐書」には、「倭国伝」と「日本国伝」という記載があり、日本国が倭国を併呑したことが
  書かれている。
  日本国は、神代の古から自分の王家が日本列島の王者であったことを主張したため
  それを認めた後の中国史「新唐書」では、「日本国伝」に記述が統一された。
 ●●主な著書●●
 ◆「邪馬台国」はなかった◆
読んで字のごとく。通説『「邪馬壹(一)国」は「邪馬臺(台)国」の誤り』を打破するため、
魏志中に出てくる全ての「壹」と「臺(台の旧字)」の字を抜き出して
書き誤りがなかったことを検証した。まさに「学者」という感じのパワフルな本。
この本に、既に「倭人は太平洋を渡った」というテーマが書かれている。
古代史の第一作目。
 ◆失われた九州王朝◆
中国史書・朝鮮史書を通して、倭国=九州王朝の存在を 古代から大和時代まで
時代を追って検証する。
 ◆盗まれた神話◆
古事記・日本書紀について、どの部分を誰が書いたのかを検証する。
この史書は、架空のものでも創作でもなく、九州王朝の歴史書を天皇家が盗用したものと見る。
それにより、近畿天皇家が「万世一系」を主張するために 史書をねじ曲げた手法が見える。

古田氏は今までに数限りない本を著しておられますが、なんと言ってもこの三部作。
この中に「古田説」が凝集されています。
古田氏著書の特徴は、なんと言っても明快なこと。
「これが原文」「これが誰々の説」「これが私の説」とはっきり書いてあるため、
この資料はどうだとか、どの説がおかしいとか、やっぱり古田説はおかしいとか
読者にもはっきり分かるのが特徴です。
ここで引用したそれぞれの資料の信憑性について疑われる方は、
直接氏の本を読んでみられるといいと思いますが、
そうでなくとも 興味のある方は、是非読んでみてほしいです。
ただ、中国史書の引用が多いので 漢字アレルギーの方には少々読み難いかも知れません。
それと、他の説への批判(批評と言うべきなんですが)が、少々手厳しいので、
それが鼻につく方もいらっしゃるでしょう。
その 他説批判のやり方が、今まで学会に認められなかった原因のひとつではないかと、
私は秘かに思っているんですが・・・。
ほんとうに、いい方なんですがねぇ・・・・。

古田ファンによる、古代史の市民研究会があります。
私の入会している tokyo古田会 や、 新・古代学の扉
他にも徐々に増えてきてます。
古田氏の著書を知りたい方は上のサイトへ。