●●神話●●




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 ●●古墳時代●●

 ◆歴史でみる日本◆<古墳文化>(宮崎・西都原古墳群) /2002年2月/教育テレビ(30分)/佐原眞解説
◆要旨:
初期には前方部で祀りを行った後 後円部に葬っていたが、後に前方部にも葬るようになる。
祀りは、古墳の横でも行っていた例がある。
前方部は、初期には撥(ばち)型だが、後の時代になると太く短くなっていき、全体が鍵穴のような形になる。
また、初期は前方部の方が低いが、徐々に同じ高さになっていく。
 ▼宮崎県西都原(さいとばる)100号墳(西暦300年〜325年ぐらい) ※作成当時の様子に復元されている。
葺石(ふきいし)が、他の古墳と違い、ただ置き並べただけではなく 突き刺すような形で敷き詰めてあった。
 ▼169号墳出土の家型埴輪について。(埴輪で竪穴式住居は珍しい。)
竪穴式住居の周りを、4つの平屋住居が囲んでいる。
弥生時代後期から古墳時代の始めにかけて、有力者は 私的な生活を大型の竪穴式住居で送っていたのではないかと考えられる。
これは 島根県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡の発掘状況や、奈良県佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡・
奈良県東大寺山古墳出土の剣の柄頭の文様からも分かる。
(文様には、竪穴式住居に衣笠(高貴な人物にかざす大きな笠)が立てかけられてある。)
 ※埴輪には、私的な生活は表さなかったのではないか。
 ▼船・馬
169号墳からは、丸木船の上に構造船を乗せたような形状の船の埴輪が出土している。
船の埴輪は各地にあり、古墳の壁画に描かれたりもしている。
舳先の両側に長い突起の付いた形状のものと、口を開けたような形状で 波を切る仕組みと考えられるものがある。
西都市百塚原古墳群出土の馬具他。各地に馬具が多く出土している。
乗馬は古墳時代からと考えられる。(騎馬民族征服説の説明&否定)
 ▼地下式横穴墓 (小林市東二原(にはら)遺跡)
宮崎県特有の墓式。縦に穴を掘った後、そこから横方向に玄室を掘り進む。
縦穴と横穴の間を石を詰めて塞いだ。
宮崎県特有だが、立派な鎧が出土していることから 有力者の墓であることは間違いないという。
この墓群を隼人の墓に比定する説があったが、現在は時代も場所も違うことから否定されている。
 私の記憶では 地下式横穴墓は うちの市(東京)でも出ていると思ったけど(^^;
 ▼骨鏃(こつぞく。骨のやじり。)
全国的に、広い時代で出土し、魏志倭人伝にも載っている。
骨鏃は、実は鉄の次に威力のある鏃で、黒曜石よりも貫通力があることが アメリカの研究によって証明された。
 ▼追葬 (宮崎県西都市 鬼の巖(いわや)古墳)
堀の外側に土手を巡らせ、その周囲に更に堀を巡らせる 全国でも珍しい形の円墳。
地下式横穴墓は一回のみの埋葬にしか使えないが、
古墳(横穴式石室)は 玄室の入口を開けばまた別の人物を葬ることができる。これを追葬と言う。
鬼の巖古墳では、3つの木棺に 3人の人物が葬られたことが分かっている。
 ▼まとめ
古墳は250年代に畿内に始まり、畿内から九州地方に広がり、4世紀には 南九州〜東北地方まで広がる。
地方豪族が畿内の前方後円墳と同じ形の墓を作ることによって(畿内の王権がその形を認めることにより)
お互いの連帯感を強めたのではないか。
◆感想
30分という限られた時間の中だったが、「古墳文化」と題して宮崎県の古墳を中心に解説するのは 少し無理があるように思う。
畿内は勿論だが、出雲の四隅突出型古墳(時代は弥生)や 特に吉備地方について触れて欲しかった。
畿内中心の発想だが、この形でないとならないという「思想性」の問題がおざなりにされている。
再葬(一度土に埋め、骨だけになった後で古墳に埋葬する)や火葬については 触れなければいけなかったのでは?

 ◆「黄泉の国」の考古学◆ 辰巳和弘/講談社現代新書/96.11.20発行
◆要旨:
考古学者である筆者が、数々の古墳発掘結果から 古墳時代の日本人の根底にあった葬送観を探る。
従来は、船形の棺や 装飾古墳の壁画・埴輪などは、被葬者(死者)の職種や身分を現すものと言われていたが、
それらには 意外と普遍性がある。
小さな古墳や 洞穴葬であっても、豪華な副葬品を伴うケースが多いし、
王権を象徴する椅子や高殿・衣笠などの埴輪が、小さな古墳から出土することも多い。
これらは「死者を守り」「あの世への無事を祈り」「あの世での繁栄と再生を願う」
この時代の共通の思想を反映したものではないかと筆者は考える。
特に、古墳壁画の描かれた石室は 死者を葬った後は閉鎖されて闇の世界となる。
つまり、遺された人々や後世の人々の為に描かれたものではなく、あくまでも死者のために描かれたものである。
 ▼洞穴葬
洞穴に遺体を葬る葬制。海に浸食された海蝕洞穴を使う例が多い。
太平洋側に広く分布するほか、日本海側にも見られる。
これらの洞穴は、弥生時代中期頃から利用され始め、古墳時代を経て 一部では奈良・平安時代にまで及んでいる例もある。
始めは住居と併用され、後には葬送の場としてのみ利用されるようになる。
葬法は、遺体をそのまま葬るのではなく、遺骸を一度骨にした後に 骨の一部を棺に葬ることが多い。(これを「再葬」又は「改葬」と呼ぶ)
後世になると、これに火葬が加わる。
海岸で採取したとみられる岩塊を船形に並べた棺(船形石棺)や、刳り抜きの船形木棺が出土している。
石室には、海岸の丸石や 貝殻などが敷き詰められている。
渡り鳥であるアジサシを抱いて葬られている例や 亀の甲を蓋にした例もある。
 ▼「洞穴」の先
出雲国風土記によると、古代出雲では「脳の磯」の西の窟の内部に「穴」があり、その向こうに「黄泉」(あの世)があると信じられていた。
その窟を「黄泉の坂」や「黄泉の穴」と呼んだという。
「穴」は「坂」であり、あの世とこの世を結ぶ道であり、境界である。
神話では、イザナギが死んだイザナミを黄泉に訪ね、追われて帰って来たときに 黄泉平坂を「石」で塞いだ。
横穴式石室は人口の「穴」であり、入り口を「石」で塞ぐ。
沿岸部にある洞穴葬と、横穴式石室や横穴を葬送の場とする葬制のあいだにある他界観は、
根っこの部分でつながっているのではないか。
 ▼窟と再生
加賀の潜戸では、洞穴に入ったキサカヒメが矢で洞穴を射抜いて佐太大神が誕生する。
他にも、男神が矢になって姫のところへ来て 子が産まれた神話がいくつかある。
キサカヒメはオオナムヂを救った再生の神でもあり、洞穴は誕生と再生の地であった。
加賀の潜戸は「旧潜戸」と「新潜戸」があり、「旧」は葬送の場 「新」は誕生と再生の場であった。
また、加賀の音「カカ」は、大蛇の古語である。
佐太大社を始めこの地方の大きな神社では、神在祭の時期に海岸に流れ着くセグロウミヘビを「竜蛇様」と呼び祀る。
古代の人々は、洞穴を女陰と見て誕生を、
また その奥深さから大蛇の姿を連想して、冬眠や脱皮の生態に生命の再生を見たのではないか。
アマテラスはスサノオの暴挙を怖れ窟に籠もるが、神々の計略とアメノウズメの踊りで再び姿を現す。
これは太陽神の衰微と復活の神話で、その背後に太陽の再生を期待する儀礼(芸能)がある。
つまり春の来訪を期待する冬至の祭りである。
窟とは洞穴のことで、衰退した太陽神が洞穴に籠もり 新たな活力を得て復活すると考えられていた。
ならば洞穴に空いた穴によって誕生した佐太大神も太陽神で、衰退した大神が「旧潜戸」に籠もり「新潜戸」に復活するという神話もあったのではないか。
オオナムヂは、黄泉の国で「室」に入る試練を受け、この世に戻り大国主となる。
「籠もる」という言葉は、ただ「隠れる」のと違い、「籠もる」場からの生命力を受け己が命を増幅させる期待が込められている。
「籠もる」という行為は霊力あるものに包まれた外界から見えない空間に身を置くことであり、
やがては更新された新たな存在として、もとの世界への復活が予定される。
その空間はウドやウツ・ウト又はムロと呼称され、入り口の他に外界との連絡手段のない構造で、生命の増殖をもたらす場と考えられた。
紀伊国牟呂郡には牟呂の温湯と呼ばれた温泉があり、斉明・文武・持統天皇が行幸している。
湯治もまた「籠もり」であり、病んだ心身を活性化させる 再生・復活の行為であり、牟呂(ムロ)という地名もそこから生まれたものと思われる。
古代人は洞穴に、黄泉国へ至る入り口(坂・境界)と、籠もることにより新たな命(霊力)を獲得する場という二とおりの意味を重ねていた。
 ▼産土(うぶすな)
産土とは、「人の生まれた土地」とか「本居となる地」の意味とされる。
福井県のある地域では、産小屋に畳を敷かず、まず海のきれいな砂を敷き、
その上に藁を置き、次に粗いムシロを重ね、いちばん表面にい草のゴザを敷くという。
その砂のことを「うぶすな」と言う。うぶすなとは産屋の砂のことだった。
新しい命は「産砂」上に誕生する。
石室に敷き詰められた石は再生を願う「産砂」ではないか。
 ▼船形の棺
船は、常世(あの世)へと死者を運ぶ手段と考えられていた。
棺の下には 丸い石や貝殻を敷き詰めた例が多く、その場所を 渚に見立てていたのではないか。
 ▼装飾古墳・埴輪
装飾古墳とは6〜7世紀の古墳で、石室の壁面に紋様や絵が描かれているもの。主題は主に
 盾/靱(ゆぎ。矢を入れる)/弓矢/鞆(とも)/刀剣などの武器や武具類。
 馬や鳥/太陽のもとを航行する船/船や馬に乗る人/
 狩猟する人物/大の字に立ちはだかる人物
 同心円文/連続三角文/直弧文/渦巻き文/蕨手文/双脚輪状文
 など。
埴輪は、
 四世紀:建物/鶏/衣笠/武器・武具/壺などの造形物
 五世紀:上に加え 船/水鳥/馬
 五世紀中葉:上に加え 人物/犬/猪/鹿
武具や武人埴輪は あの世での被葬者を守るもの。特に埴輪で造られた武具・武人は、古墳の頂上を巡らせて 被葬者を守る結界としている。
馬や船は、被葬者をあの世に導くもので、船や馬の上に誰もいない場合は、被葬者が無事にあの世に着いたことを現している。
船は多く太陽とともに描かれ、その舳先には鳥がとまる。太陽の鳥「三本足のカラス」ではないかと思われる。
また、被葬者があの世にたどり着いた時には、青い旗を掲げる。
直弧文や三角文は、邪霊を祓う図象。渦巻き文は、永遠を象徴する図形。
家形埴輪は、壁面に盾が描かれ、内部に牀(とこ)が表現され、衣笠を立てるための穴が開いている。
首長が祭儀を行うための神聖な高殿(巨大な高床式建物)を表現している。
後の時代には、石室の天井を屋根のようにして、石室全体を高殿に見立てている。
牀は「神牀」と言って、首長が 夢で信託を得るために寝る場所である。
高殿・衣笠・椅子・椅子に座る人物等は、古墳の大きさは小規模であっても一貫して表現されている。
つまり、古墳は 船であの世にたどり着いた被葬者が (現世の身分に係わらず)首長として王権祭儀を行う「ハレの空間」。つまり「他界の王宮」なのである。
 ▼「前方後円」
「前方後円墳」という名前を使い始めたのは江戸時代中期の蒲生君平である。
それ以降 これは「天を方 地を円とする」古代中国思想からきた形だと理解された。
だが、初期の前方後円墳は 前方部分が撥形をしており、次第に前方部前端の幅が広くなっていくため
これを「方形」と見るには無理がある。
これは、円を下にして見ると 壺を横から見た形になる。
古代中国では、東方楽土の蓬莱三神山(徐福が不老不死の薬を求めた)は「壺の形をしていた」と考えられていた。
また「壺中の天」という故事があり、壺の中には現実世界とは別の天地(不老不死の神仙界)があると言われていた。
壺形をした前方後円墳は、神仙界。つまり常世(他界)を現出させたモニュメントではないか。
そして 周囲の堀にたたえられた水は、蓬莱山を浮かべる東海を造形しようとする意図があったのではないか。
敷き詰められた丸石は、他界の渚を表現している。
 ▼その他
★史書(続日本紀)では700年(僧 道昭)を火葬の始まりとしているが、洞穴葬では 6世紀に既に火葬が始まっていた痕跡がある。
★出雲の猪目洞穴の猪目(いのめ)は、「夢に見ると死ぬ」という伝承から、「ゐめ(ゆめ)」ではないか。
★同じく出雲の「脳づき」(なづき)は、他に「脳の磯」・「脳嶋」等があることから「魚突き」(銛で魚を突くこと)だろう。
★『考古』趺坐(あぐら)をかいたり椅子に座る人物は首長やそれに準じる位にあった人物。大帯は高位の人物が儀礼の際に身につける衣装。
★葬送儀礼の際には、皆が頭に 「葬冠」と言って三角形の白い布を付けた冠をかぶる。
★「袖振」は、亡き人の再生を願う儀式。
★『考古』被葬者がかぶる 馬や太陽の鳥の飾りの付いた冠は、葬送のために死者が被る装束だろう。
◆感想
私は、「転生思想」は日本にも古来からあったと思っている。
ただ、今までは 熱帯雨林の倒木から芽が出るところから発生した思想だと思っていたが、
日本人の中に「洞穴に籠もり再生する」思想があったというのは頷ける。
前方後円墳が壺の形だとしたら、方墳や 出雲の四隅突出型方墳は何を由来にしているのだろうか?
理路整然と述べられているが、私のような素人は 分布図が欲しかった。
船形木棺や、洞穴葬に関しての。欲を言えば、火葬の分布図も。
イザナミの腐れた様子は、石室内で腐乱した遺骸を目にした様子の反映と筆者は見るが、
私は、これは「もがり」(葬る前に、遺骸を長期間部屋に安置する)の様子だと思う。
洞穴葬では「再葬」が多いと言うし、再葬するからには一度骨にしなければならない。
一般的には一度地中に埋めてから掘り返すと言われているが、
天皇のもがりは 3年もやる場合があるので、もがりをして骨にした後に葬ることがあったのではないかと思う。
まだ肉体のあるうちは(イザナミがイザナギの元へ)帰れることがあるかもしれないが、
骨になったらもう帰れないということだと思う。

 ◆埴輪と絵画の古代学◆ 辰巳和弘/白水社/発行
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 ◆高殿の古代学◆ 辰巳和弘/白水社/発行
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 ◆地域王権の古代学◆ 辰巳和弘/白水社/発行
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