日本天皇及び太子皇子倶に崩薨す

継体紀(日本書紀)内にある百済本紀の引用文。
冒頭に載せるには、あまりに複雑な問題を孕んでいる百済紀引用文だが、
継体天皇の時代、天皇家にこのような大事件が起こったという記録はない。
それなのに、百済本紀に記されていたとされるこの記事は一体何なのだろうか。
この時期、日本列島で ある大事件が起こった。
「筑紫国造磐井の乱」として知られている大乱である。
日本書紀によれば、「磐井」は継体天皇に謀反を起こし、皇子一人を残し 家族共々滅ぼされたことになっている。
だが磐井は、筑後国風土記によれば (おそらく日本列島で初めて)裁判制度を導入した人物であり、
その様子を古墳の周りに石で造るように命じ、『筑紫君』と呼ばれた王である。
この時期、アジア諸国に「倭国」と称されていたのはどこの国だったのか。
 ※この大乱によって壊されてしまったが、今でも筑後岩戸山古墳周辺では、ばらばらになった石人・石馬が出土する。

日出る処の天子 書を日没する処の天子に致す

有名な隋書の文。多分これを知らない人はいないと思う。  ※ちなみに"倭国伝"ではなく"国伝"(たいこくでん)である。
だが、なぜ倭王(正確には王)は"天子"なのか。
天子とは、当時のアジアでは至上の位である。勿論天皇よりも位が高い。
 ※最も、中国が南北朝時代になってから、王が"天子"を称する国がアジアに続出していた。
 倭国王が天子を称したのは、南朝が滅亡し 隋を起こしたのが夷蛮である「北狄」であったため。

対外的に"天子"を名乗る力量があるのなら、正史(日本書紀)に"天子"と記述しないのはなぜか。
しかも、当時の倭王は男性。正妻の他に妾がいたと書いてある。
ご存じのように、当時の天皇は推古女帝である。

日本は旧小国。倭国の地を併せたり

「旧唐書」には「倭国伝」の他に「日本国伝」というものが存在する。
この時代 倭国の使者の他に日本国の使者がやってきて、
今までの倭国の歴史とは違うことを主張していると書いてあるのだ。
これは一体どういうことなのか。

古事記や日本書紀と海外資料の記述の相違に、「倭国」と「天皇家」は同じではないと論じる歴史家は多いが、
その問題の「倭国」が、天皇家とは別に8世紀まで続いていたと主張する歴史家は、
古田武彦氏を置いて他にないだろう。
古田氏の説が突飛すぎるのか。それとも これらの資料の物語ることの方が深刻なのか。
ともかく、古田氏の研究方針は 「元資料を安易に改竄しないこと」 その一言である。
もしこれらのことに興味があるなら、次のページに向かって欲しい。

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